工場勤務から営業へ転職した頃の僕は、人との会話すらおぼつかない人間だった。
だから毎朝、始業の一時間前には会社へ行き、お客様との会話を想定した文章をノートに何ページも書いていた。
何を聞かれたら、どう返すか。
断られたら、どう切り返すか。
とにかく、人並みになることだけを目標に必死だった。努力は少しずつ結果につながり、営業成績も伸び始めた。
「このままいけるかもしれない。」
そう思い始めた頃だった。僕の部署に、一人の同期が配属されてきた。
明るく、人懐っこく、誰からも好かれる男。愛車はランドクルーザー。結婚も決まっていて、人生そのものが順風満帆に見えた。
彼が来ると、お客様も上司も自然と笑顔になる。僕が何年もかけて積み上げてきたものを、彼は半年も経たないうちに追い抜いていった。
努力では埋まらない才能。そんなものを初めて目の前で見せつけられた。
「真面目だけじゃ勝てない。」
そう思った。自信は、一気になくなった。そんな僕の左隣に座っていたのが、九州出身の黒髪の後輩だった。少しぽっちゃりした、ごく普通の女性。
もちろん僕を男として見ている様子なんてない。完全に職場の先輩くらいの存在だった。
ある日、雑談の中で元彼の話になった。「目の前にテレビのリモコンがあるのに、『取って』って言うんですよ。」
九州男児らしい亭主関白ぶりを笑いながら話していた。「へぇ、そんな人もいるんだ。」僕は、それくらいにしか思わなかった。
彼女も最初は営業が苦手だった。でも、少しずつ契約が取れるようになり、目に見えて成長していった。
ある日の午後。左隣から、お客様と電話で話す声が聞こえてきた。話し方で分かる。「あ、これは決まる。」営業をやっていると、契約が決まる瞬間の空気がある。
数分後。「ありがとうございます!」電話が終わった。その直後だった。
「……はぁ。」
「……はぁ……。」
「……はぁ……。」
隣から静かな吐息が聞こえてきた。思わず横を見ると、彼女は椅子にもたれ、一人で余韻に浸っていた。
まるで大仕事を終えたような表情だった。最初は驚いた。でも、すぐに分かった。
営業を始めると、契約が決まる瞬間には独特の高揚感がある。苦労した案件なら、なおさらだ。
緊張が一気にほどけて、全身から力が抜ける。彼女は、それを素直に体で表現していただけだった。
隣に僕がいることすら忘れるくらい。営業という仕事に夢中になっていた。別の日も何度か目撃した。
僕は何も言わなかった。人は、それぞれ違うところに喜びを感じる。スポーツで勝つ人。ゲームで勝つ人。料理を作る人。営業で契約を取る人。その形が少し変わっているだけで、否定する理由は何もない。
ライバルに負けて落ち込んでいた僕の隣では、一人の後輩が営業の面白さに目覚めていた。
会社という戦場には、恋愛より不思議で、人間らしい瞬間がたくさん転がっている。
(54人目へ続く)—
💡 今日のまふぇっと教訓
👉 人は何に喜びを感じるか分からない。だからこそ、自分の物差しだけで他人を笑わないことが大切なのかもしれない。
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